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bluelines

女子大教員。大学教育・言語・ねこ・写真とカメラなどについて。

少しも寒くないわ(夏なので)

こないだツイッターで呟いてたレリゴー噺がまとめられて、なんだか結構な騒ぎになりました。

 

『ありのままで』の歌詞はトンデモ訳?→日本語版に合わせたプロの仕事! - Togetterまとめ


でまあせっかくの流れですので、この話にちょっと追記します。今回は完全にネタバレを含むのでブログで。

上のまとめの中で、レリゴー日本語版は、「決別+解放」という英語版のテーマから「決別」を狙って削ぎ落としている、と述べました。このエントリで取り上げる問題は、「決別」を削ぎ落した日本語版が、英語版(オリジナル)のメッセージを根幹から変えてしまったことになるのか、ということです。これはすなわち、「英語版は抑圧から逃げ出して得た自由=孤独に開き直っている状態を歌ったもので、「もうあいつらのことなんてどうでもいいわーどうにでもなーれ」というヤケクソソングであり、本質的にネガティブなものである」という解釈について考えることになります。もし英語版が本当にそういうネガティブソングであるならば―あるいはそういったネガティブな側面が、ストーリー上において欠かすことのできない機能を果たしているのであれば―日本語版は確かに「重大な欠落がある」と言えるでしょう。で、果たしてそうなのか。

答えだけ先に書くと、僕はそうは思いません。

僕はこの曲、映画を観る前に知りました。で、英語版の歌詞を読んで、「ああ、これは「あいつらなんてもう知らね」って歌なんだな」と思ったんですね。Let it goという表現は、例えば失恋してうじうじ悩んでる相手に向けて、「もういいだろ、忘れちゃいなよ!」みたいな意味で用いられることがあります。エルサは自分にそう言い聞かせてるんだと。つまり彼女はあのシーンで、アレンデールの人々の事を気にかけることをやめることで「解放」される。それはエルサにとっては気分がいいことかもしれないけど、王国の人々からすれば恐ろしい「雪の女王」の誕生を意味するのだな、なるほどなるほど、と考えたのです。

ところが、映画を実際に観てみると、どうも様子が違うんですよね。決定的なのはエルサの城をアナが訪ねてくるシーンです、博多弁バージョンですが:


生まれてはじめて リプライズ in博多 博多弁ver アナと雪の女王 完全版 For ...


このシーンでエルサは、アナに「はかたが危機なんよ」と告げられて、ものすごく動揺しています。どうしてでしょうか。「あいつらなんてもう知らね」だったのならおかしいじゃないですか?「そんなのは私には関係ないわ」とでも言うはずです。で、実際にエルサがそういった「凍りついた心を持つ雪の女王」だったとしても、その後のストーリーは何ら問題なく回せるはずです。

アナ:「エルサ、冬をなんとかして」
エルサ:「そんなの私は知らないわ、寒さなんて私には関係ないもの。姉妹のよしみで命だけは助けてあげるから帰りなさい」
クリストフ:「だから無理だって言ったろ?」
アナ:「私あきらめない!絶対エルサの心を溶かしてみせる!」

〜なんやかんやあって〜

エルサ:「アナ、私が間違っていたわ。冬を終わらせましょう」

〜めでたしめでたし〜

ちゃんと成立するストーリーだと思います。でもこの映画のエルサはそうじゃないんですね。アレンデールが凍りついたと聞いて動揺し悲しみ感情を爆発させ、これ以上アナを傷つけることを恐れて追い返す。そのあとはおろおろする。もう大体おろおろしている。終盤ハンスに「お前のせいでアナは死んだ」と言われたとき、エルサはショックで崩れ落ち、無抵抗でハンスに自分を殺させようとするわけです。

どうでもよくないんです。エルサにとって、アナ含めた他者は、最初から最後までずっとどうでもよくはならない。

エルサというキャラクターは、"Let It Go”の歌詞をベースに構築されたことは有名です。しかし上で述べた通り、あの英語版の歌詞自体は、「凍りついた心を持つ、恐ろしい雪の女王誕生の歌」と解釈することもできるんですね。しかしこの映画の作り手達は、レリゴーベースのエルサをそういうキャラクターにしなかったんです。そうすることはできたのに、そうはしなかった。ということは、あのレリゴーのシーンで、彼らはエルサに「もうどうでもいいんじゃーあいつらなんか知るかボケー関係ないんじゃアホー」と言わせたかったわけではないはずなのです。

レリゴーしている時、エルサは「ここにいれば彼らに危害は及ばない」と思ったのです(実際はそれは間違いだったわけですが)。だから魔法の力を思う存分出せたわけですね。エルサはそこで、はじめて自分の力をポジティブに受け止めます。私にはこんなことができるんだ。こんなことも、ああこんな凄いことも!今まで自分自身に怯え、変わることができないことに悩み続けてきた女性が、あそこではじめて「自分の変われない部分」を肯定するのです。ここでなら、私の中で渦巻く嵐(”swirling storm inside”)を解き放ち、自分に何ができるのか思う存分挑戦することができる。ここでなら誰も傷つけずに自分自身でいられる(”I belong here, alone, where I can be who I am, without hurting anybody”その後のアナとの会話におけるセリフ)、と思うわけです。だから彼女は、「もう帰らない」と決心するわけですね。それは確かに悲しい選択ですが、エルサが発見した「自分自身として生きる歓び」は、(すくなくともその時点では)その悲しさを上回るのです。

“Let it go”というフレーズが最初に出てくる場面でエルサが何をするか。力を解き放つわけですよね。幼い頃の「事故」以来、隠そう抑えこもうとしていた力を、あれ以来初めて自分から外に出すわけです、最初は恐る恐る、少しずつ大胆に。あれは、”Let it(=魔法の力)go out of my body”という意味だと解釈することができます。自分の中で押さえつけられ、しかし決して消え去らずに渦巻いているもの。それはまさに「自分自身」でもあるわけですが、それが望むままに外に出してやろう、ということですね。そして彼女は自分の力を目の当たりにして、自分自身を認めていくのです。一番最初のレリゴー時、エルサは自分が出した美しい雪の結晶を見て、それまでの厳しい表情を和らげます。彼女の表情の変化に注目して下さい:


FROZEN - Let It Go Sing-along | Official Disney HD ...



つまりレリゴーは、エルサという異形の力をもつ女性が、「自分自身と和解する」でシーンなのだと思います。そして映画後半は、エルサが「世界と和解する」過程が描かれるわけですね。あの映画は、既存の社会にそのまま収まらない特質を持つ人間と社会が、どのようにして折り合いをつけていくかを描いている(その際、既存の社会側に属する人間からの愛が決定的に重要なのだ、と言うわけですね)。その過程は二段階あり、一つ目がレリゴーで、「力の持ち主が、自分の力を解放し、その力を肯定する」ことがあのシーンの核心なのだ、と考えられます。で、そうだとすると。

「ありのままの 姿見せるのよ ありのままの 自分になるの」
「これでいいの 自分を好きになって これでいいの 自分信じて」

って、ものすごく的確に、このシーンの核心を撃ち抜く言葉なんじゃないでしょうか。

「決別」を削ぎ落したことで、自由を得るためにエルサが犠牲を払うという「悲しさ」は失われているかもしれません。しかし、それは決してこの劇中歌がストーリー上でもつ意味を大きくねじ曲げたりするものではないと思うのです。


なんかレリゴー噺はやたら長くなりますけど、僕は全くもってディズニー好きというわけではありません。僕の興味はもっぱら「これを作った人達」にあります。「とんでもないことをやり遂げる人を目の当たりにしている高揚感」っていうんでしょうか。ハムの二刀流大谷を眺める感覚にも近い。僕の常識では、そんなんできるわけがない、無理に決まってる、と思うようなレベルの仕事をやってしまう人達。作品を通してそういう人の存在を感じるというのは、とても幸せな体験であると思っています。