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bluelines

女子大教員。大学教育・言語・ねこ・写真とカメラなどについて。

ニコンの新カメラとぼくのロマン

写真・カメラ

昨日、ニコンのこの新製品ティザーを見て、胸の中でロマンが暴れだして止まらないので書きます。

ニコンは言わずと知れたカメラ屋です。ずうっとカメラを作ってきました。カメラという機械は、フィルムからデジタルに置き換わり、日進月歩の進歩を続けています。新機種は発売後数年で、もっとずっと性能のいい機種に置き換えられていきます。毎年発表される新機種は、「世界初」「世界最小・最軽量」「世界最速」「世界最高画質」を引っさげて登場します。より高精度の写真を、より効率よく吐き出す機械を。だってそうしなきゃ、誰もが持つようになったスマホに存在意義を奪われ、駆逐されてしまうんです。

こんな時代の状況で、ニコンが創った新製品の「予告編」の主役は、音でした。一人の男が―無精髭を生やし、どこか所在なげな目をした男が―空っぽの風景の中に立っています。彼の視線が下がり、「カチ、カチ」というクリック音が二種類聞こえます。男は顔を上げ、カメラを構えます。シャッター音が響きます。

この音を聞いた時、僕は背筋に何かが走ったんです。「ああそうだ、これだ、これなんだ」です。現在のカメラ業界は、カメラのアウトプットの質と量で競争しようとしています。結果が大事、どんな風に写るかが大事、どれだけ効率よく撮れるかが大事。そこにニコンは、現代のデジタルカメラのアウトプットには全く影響しないはずの―今時そんなものがついてないカメラだって同じ写真は撮れるはずの―ダイヤルやらを回したときの、昔のカメラが鳴らしていた、マニュアル操作の音を響かせたんです。

ここには、「カメラという機械は何を提供すべきか」に関するニコンの哲学が見える気がします。カメラは、人間に結果としての写真そのものだけではなく、写真を撮るという経験全体を与えるものなんだ、という考えです。結果としての写真だけを問題にするなら、ダイヤルのクリック音なんてどうだっていいはずです。でもそうじゃないんだ。シャッターを切るのが人間である以上、カメラは「シャッターを切る」という行為そのものに特別な意味を与えるものでなければならないんだ。あるカメラがどれだけ価値があるかは、その機械がどれだけ人間に「次のシャッターを切りたい」という想いを与えるか、で決まるんだ、という。

ティザーの中で、男はこの世界が今だけ見せている表情を発見します。これを何とかして切り取りたい、誰かに伝えたい。男は、手の中の、樹脂と金属とガラスの塊と対話を始めます。なあ、これでいいよな、頼むぞ。あのクリック音は、人間がカメラとコミュニケーションを取っている音なんです。男は顔を上げます。光が差してきている、今だ。緊張、畏怖、高揚。そして世界が切り取られる音。

"It's in my hands again" 「この感触だ」

暗転した背景に、一瞬だけ浮かぶレンズの顔。



ものすごい拡大解釈になってしまうんですけど、僕はこれを自分の仕事と結びつけて考えてしまいます。今、教育にはアウトプットの評価が求められています。出口保証だ、コンピテンシーベーストだ、結果として何ができるようになったかが大切だ、云々。わからなくはないです。わからなくはないんですけど、僕の中のロマン小僧は「それだけじゃないんだ」と叫ぶんですよね。テスト範囲が1-100ページだとしたら、100ページまでの内容をどれだけ効率よく習得させるか、じゃなくて、「101ページ目を開いて読みたい」という想いが与えられるかどうか。そこにこそ、人間が心震わせる何かがあるような気がしてならないんです。


暴れだしたロマンをそのまんま放り出した、大変恥ずかしい文章になりましたけど、まあこのままで。