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トラルファマドール人が見た日本

大学で言語学を教えています。入門の授業で、「ことばとこころを巡るヨタ話の一類型」として、次の文章を配っています。

題は「トラルファマドール人が見た日本」。僕が適当にでっち上げた文章です。

 わたしはこの度、極東の島々に住む『ニポンジン』という風変わりな民族の調査を行った。この調査を通じて明らかになったのは、我々が当然のように共有している基本的な知覚すら与えられていない人々が居るということである。ニポンジンの話すニポンゴは、知覚を表現する語彙が驚くほど貧弱である。これはとりもなおさず、我々にとっては当然の知覚的区分が、彼らには同一の体験として受容されていることを示す。

 例えばニポンジンは、『味』を極端に大雑把にしか分類しない。彼らの味覚に関する語彙は、『アマイ』『カライ』『ショッパイ』『ニガイ』の四種類しかない。信じられるだろうか?彼らはチョコレートを食べても、真っ赤に熟したイチゴを食べても、土着の菓子であるアンコを食べても、同じように『アマイ』と表現するのである!この驚くべき無頓着さは、彼らの味覚が原始時代から未発達で、チョコレートと果物の味が区別できないことに起因している。

 ニポンジンは、嗅覚に関してはさらに酷いものである。何しろ彼らは、香りを表す表現を一つしか持たない。不快な匂いがしたときに『クサイ』というだけなのだ。そして、腐った匂いも、汗の匂いも、有毒ガスの匂いもすべて『クサイ』で片付けるという体たらくである。では例えばバラの香りはどう表現するかというと、そのまま『バラの香り』と言うのである。なんという貧弱な言語であろうか。バラの香りがバラの香りなのは当たり前であって、それではバラを知らない人に満足に伝えられないではないか。

 しかしニポン滞在が長引くにつれ、わたしのニポンジンに対する印象は少しずつ変化していった。彼らは『ゼン』と呼ばれる宗教的価値観を持ち、そこでは一切の虚飾を削ぎ落としたシンプルなものが美しいとされている。考えてみれば、我々人類の生物としての生存に関して、チョコレートと果物の味の違いがわかるとか、バラとキンモクセイの香りの違いがわかるとかいった能力は、必ずしも必要がないのである。我々の社会は、我々が必要以上に発達させた知覚に対応する形で生まれた、必要以上に様々な商品によって埋め尽くされている。我々はこのような商品を思うがままに手に入れることが幸福であると教えられて育ってきた。しかしニポンジンは、そのような虚飾を廃した生活を美とし、慎ましやかながらも幸福に暮らしているのである。この思想をゼンでは「我、足ることを知る」と言い、ニポンジンはこのスローガンを各家屋の至る所に彫り込んでいる。彼らのシンプルな知覚とシンプルな生活様式には、我々のような「進んだ文明」の住人達が学ぶべきことが多く含まれているのではないだろうか。

これが禄でもないヨタ話でしかないことは、我々は読めばすぐわかります。で、僕は授業でこの文章を読ませてこう言います:

「このヨタ話と全く同じ構造を持つ物語が、ことばとこころを巡るトリビアとして世の中に溢れている。ちょっと探せば、対象がニポンゴとニポンジンじゃないだけで、内容自体は全く同じような話をすぐに見つけることができる」

例えば、アメリカの言語学者ベンジャミン・リー・ウォーフは、アメリカ先住民の言語ホピ語には時制や時間を表す言語表現が存在しない、と述べました。ウォーフはそこから、ホピ語を使うホピ族がもつ時間の概念は、我々とは全く違ったものになっているのだ、と主張したのです。この主張はしばらくした後、「ホピ語に時間の表現、めちゃくちゃいっぱいあります」という指摘によって、そもそもの議論の前提が否定されてしまいます*1。

 

この種の事例は本当にたくさんあるんですが、一定のパターンを持っています。

(1) ある「未開の民族」の言語の、実はたいして珍しくもない特徴(あるいは、本当はそんな特徴はない、というもの)を、極めて興味深いものであるかのように取り上げる。

(2) その特徴に基づき、その言語の話者の認知・心理に関して、何の根拠もない大胆な推論を断定的に述べる。

(3) オプションとして、「未開の民族」の言語文化に対する上から目線の憧れを付け加える。

これまでの研究史において、このパターンをあまねく満たした論説というものは、大体の場合救いようがなく間違っていました。ですので僕はこの種の話が目に入ったら、もうそれだけで自動的に心のアラームが鳴り響くようになっています。最近で言うとこれ:

Eテレ「地球ドラマチック選 『ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民』」への反応 - Togetterまとめ

 

この問題について重要なのは、「人はこの手のヨタ話が大好き」ということだと思います。「世界の果ての民族のことばとこころは、我々とこんなに違っている」というストーリーは、どうしようもなく人の心を掴むようなのです。例えば、「エスキモーの言語には雪を表す単語が多数存在する」というのは有名なデマですが*2、あれが無批判に広まっていく様というのは大変興味深いです。具体的にいくつ、として出てくる数字が超バラバラなんです。ある人は10と言い、ある人は40以上といい、ある人は200と言い、もう無茶苦茶で、誰もソースを示さない。こんなに数がばらついていることに、どうして誰も疑問を持たないのか。「いくつだってたくさんなんだからまあいいだろ?だってエスキモーだろ?エスキモーなんだから雪に詳しいんだろ?」といういうことなんでしょうかね。ともかく重要なのはストーリーとして「さもありなん」な感じであって、そうでありさえすれば事実はどうでもよくなってしまう。それぐらい、「エキゾチックな民族のエキゾチックな言語」が放つ魅力は破壊的なんです。

従って、大学の授業を通じて「ことばの違いとこころの違い」に関する雑な議論に対する耐性を持たせることは、言語学者としての仕事として重要なものなんじゃないかと思っています。実はこの話、なかなか学生に伝わらなくて本当に苦労したんです。そこで考えたのが上の「トラルファマドール人が見た日本」です。日本語と日本人について書かれたものとして読めば、それが酷いヨタであることはすぐわかるじゃないですか。問題は、これがどこかの奥地の謎の民族と言語について書かれたものだとして出されると、多くの人が「すごい!面白い!興味深い!」という反応になってしまうことなのです。

 

*1 この流れに関しては、例えばガイ・ドイッチャーの「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」を参照。この本はいわゆる言語相対性仮説に関して、最もまともな一般書だと思います。

*2 J. Pullum "The Great Eskimo Vocabulary Hoax"。インターネットでPDFが拾えます。