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俺にバルサからオファーが来ないのは日本の体育教育のせい

[アメリカ日記14] 僕が英語話せないのは日本の教育のせい | taichino.com

内容要約:アメリカで就職して1ヶ月。英語で苦労してる。職場での雑談についていけない。ミーティングの議論が半分ぐらいしか理解できず、発言もできない。飲み会ではもう全然会話に入っていけない。これは日本の英語教育のせいだ。受験でニッチな単語とか重箱の隅をつつくような文法とかばっかり勉強させられてきたからだ。

[アメリカ日記15] 「僕が英語話せないのは日本の教育のせい」の続き | taichino.com

内容要約:なんか色々叩かれたけど、別にそういうつもりじゃなかった。ていうか日本の英語教育が悪くないって本気で言ってんの?10年習ってるのに話せないんだよ?英会話に重点置いてないとか根本的に駄目じゃん。



英語圏で実際に仕事・生活を始めて、そびえ立つ言語の壁の高さに打ちのめされる、というのは大変よくあることですね。僕もそうでした。アメリカ行ったとき、インターネットプロバイダーのカスタマーサポートと会話が成立しなくて、向こうから電話をガチャ切りされたりとかね。傷つくよねああいうの。僕は一般的な日本人に比べたらずっとずっと英語を勉強していて、その中には学校英語教育に含まれないものもたくさん入っていて(英会話スクールとか)、それでもやっぱり最初は色々しんどかったですよ。自分で慣れてきたかな、どうにかなってきたかなと感じたのはアメリカ行って二年目ぐらいだったような気がします。


で、そういったありふれた体験談とは半分関係ないんですけど、「なぜ日本の英語教育はこうなっているのか」について。まず前提から整理します。

(1) 殆どの日本人は英会話力を必要としていない

「日本人の9割に英語はいらない」という本がありまして、それをもっと詳しく検証した方もいます。現状日本で生まれ育って、仕事・生活において英語を必要とする人って、どう見積もってもマイノリティなんですね。さらに、「ネイティブ基準の英会話力を必要とする人」ということになると、割合は更に小さくなると思います。例えば日本の会社で日常的に英語を使う人でも、読む/書くことができて、気を使ってくれるネイティブとそれなりにコミュニケーションができれば十分、というケースが多いでしょうから。まとめますと、「少なくとも現在、日本人にとって英語は必要性の高くないスキルである」「英語の中でも会話力の必要性はさらに低くなる」となります。

(2) 英会話力の育成にはコストがかかる

前にも書いたことなんですが、割と単純な問題です。英会話訓練の効率は、クラスのサイズと反比例すると考えるのが普通です。つまり、クラスの人数が少なければ少ないほど効率が高い、ということですね。だからこそ、クソ高い金をとるマンツーマン英会話教室の商売が成り立つわけです。あの1/40のコストの40人クラスで同じ効果が得られるんだったら、だれもマンツーマンに通ったりしませんよね。ですので、日本の学校でまともに結果が出るような英会話力の訓練を行いたいのであれば、教員数を増やすなどのコスト増が必ず必要になります。

以上二つを前提として考えてみてください。「生徒の9割以上が必要としないスキルのために、個人ではなく社会がコストをかけて環境を整える」ことがどれぐらい正当化されるでしょうか。サッカーで喩え話をしてみます。「世界に通用するサッカー選手を育てるために、全国の小中学校のグラウンドを全て芝生にすべき」どうでしょうか?「いや、そりゃ芝のグラウンドがあればいいかもしれないけど、全員がサッカー選手になるわけじゃないんだし、そこにかける金はもっと別のところに使うべきでは?芝のグラウンドは学校の外に作って、やる気と才能のあるこどもだけそこに集めればいいじゃん」と考える人が多いんじゃないでしょうか?

つまりですね、日本の学校英語教育で会話に重点が置かれない、というのは、日本における英語の使われ方と、社会が公教育に対して支払っているコストから考えて、極めて合理的な選択なんですよ。いまの予算規模じゃやってもあまり意味が無い、そもそもあまり必要とされていないことはやりません、というそれだけの話で。で実際に、日本人の大多数はそれで全然困ってないわけです。「英語が話せない」ことに何だか漠然とした焦りを持ってる人はそれなりにいるでしょうが、実際に話せないことによって具体的な不利益を受けている人はごく一部でしょう。その「ごく一部」は学校でもっと英会話の訓練を受けるべきだったのでしょうか、それとも英会話スクールなどに自費で通ってなんとかすべきだったのでしょうか?

僕は、学校で英会話やるなんて無駄だ!と言いたいんじゃないですよ。「現在のところ割に合わない投資だとしても、将来を見据えてお金を払おうじゃないか、英語教員を増やして芝のグラウンドをつくろう」という議論は歓迎します。でも、英語教育批判が、そのように「自分の財布から出て行くお金の問題」として語られることって殆どない気がするんですよね。

多少脱線しますが、「大学入試の英語でスピーキングが課されないから話せるようにならないんだ」についても一言。大学入試が何のために行われるかというと、「その大学のカリキュラムに適応できる学生」を選別するため、なんですね。大学は日本人の英語力を向上させるために入試をやってるんじゃないんです。で、大学のカリキュラムにおいて英語に関して何が必要か、っていったら、それはもう圧倒的に読む力です。どんな分野であろうと大学では文献を読むことが必要とされますから、いくらペラペラ話せても読めないとどうしようもありません。これはアメリカの大学でも同じで、学生に要求されるのは圧倒的に読む力>会話力です。日本語で考えてみてください。大学入試の国語でスピーキングが課されないことに文句言ってる人いますか。入試でペラペラ口達者に喋れるかどうかを基準に学生を選別するのがいいことだと思いますか?

さらに脱線。英語に関して「日常会話ぐらいは」ということをいう人多いですけど、日常会話のどこが「ぐらいは」になるのかわかんないんですよね。例えば、日本の大学生の日常会話って、

「うぃーーす」
「お疲れー」
「知ってる?」
「何?」
憲法来週テスト」
「マジで?やっべー、ていうか終わったわ俺」
「ノート貸す?」
「ウソ!いいの?マジで?」
「昼メシな」
「いいよいいよ、サンキュー超助かるわ」

こんな感じですかね。これ、教科書で日本語を学んだ人からすると、半分ぐらい訳分かんない呪文だと思います。じゃあどうしましょうね、こういう会話例を日本語の教科書に載せますか?「生の日本語」として教えるべきでしょうか。それもなんか違いますよね。こういう言葉遣いを教えて、学習者が文脈を理解せず使ったりしても困るわけじゃないですか(上司に向かって「お疲れー」とか)。だから普通は、教科書でカバーするのは「標準的で、相手に対して失礼になるようなことはない言い方」に限定されるわけです。口語のバリエーションなんてどの言語にも山ほどあるわけで、第二言語学習者向けの教材がそれを深く取り上げようとしないのは当たり前のことなんですね。


ええと、まとめますと。僕が常々思うのは、「どうしてこんなに英語は特別なのだろう」ですね。どうして英語の話になると、他とは全く違う基準やロジックを持ち出し、ともかく学校英語を叩きたがる人がこうも多いのだろう、ということです。裏返すと、「自分が英語を思うように操れない」ことを、実際以上に自分の存在に対する脅威と受け取る人が多いということなんでしょう。そのような強烈な英語コンプレックスを多数生み出してしまっていることは、確かに日本の学校英語教育の失敗なのかもしれません。