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なりたいあなたに絶対なれる、学問選びのルール

さて、ブログを書くと色々反応があって、色々考えたりします。前回エントリへの反応から考えたことをつらつらと述べます。たぶんあんまり上手く書けないです。

今更自覚しましたけど、僕、「学問とはかくあるべし」みたいな規範意識がかなり強いですね。研究者たるものはこうでなければならない、研究者を目指すものもこうでなければならない、というところまで。その規範意識は最初から僕の中にあったものではなく、経験を経て獲得されたものです。で、「自らの努力を通して勝ち取った」という感覚が、この規範意識に対する僕の信仰を強めてるんでしょう。ブログのエントリも、ツイッターのつぶやきも、この意識がダダ漏れしています。これは読む人によっては―特に、アカデミアの中で、おっさんに「お前のやってることなんて真の学問ではない」的な説教を食らってきた人などには―鼻についたり、怖かったり、ウザかったりするんだろうなと思います。

上で述べたように、僕の知ってる規範は僕が発明したものじゃないです。この世の中にはそういった規範の元に回っている研究者コミュニティがあって、そこに僕が適応した結果として得られたものです。じゃあそもそも、そのような規範はどうしてそういう形になっていったのか、ということを考えていました。以下思ったことです。

僕の知ってる規範というのは、ある意味では、「他人に認められるような研究を行うための方法論」です。おっさんに「お前は真の学問をやっていない」とdisられて消耗することを回避するための振る舞い方、とも言えます。また、「特別な才能や幸運に恵まれていない研究者が持つべき心理的防壁」という側面もあると思います。世界を変えるような大発見ができなくても、自分の仕事の意義を信じてそれを続けるために必要な信念、ということです。

つまり、「研究を仕事にしつつ、満足して幸せにいられるためにはどうしたらいいか」という問題への答えとして、「かくあるべし」なんだと思うんですよね。「他人に認められる仕事を効率よく行うためにはかくあるべし」、あるいは「自分の仕事のインパクトに右往左往せず、自尊心とモチベーションを保つためにはかくあるべし」のように。で、これらの「かくあるべし」は、少なくとも僕については機能しています。つまり、これらの「かくあるべし」に従っているおかげで、僕は現在それなりに満足して幸せでいられている、ということです。

ただ、「かくあるべし」と「満足」や「幸せ」を結びつけて語ると、ついつい「規範に従わなければ幸せになれない」という話に転んでしまうんですよね。これは大変うざい響きの言説です。「従わずに幸せになってる例だってある」「そもそも勝手に『幸せ』を定義するな」などと反論したくなります。ここで学生指導におけるジレンマが生まれます。僕は自分の学生が、(研究者)社会に適応できずに潰れるのは見たくないわけですが、かと云って「俺の言う通りにしないと成功できないぞ」という風に聞こえてしまうのも嫌なんですよね。じゃあどうすればいいのか、何を言えばいいのか、という。

なんだかこの辺、最近の「若者はもっと自由な生き方を」と「現実として食ってかなきゃいけないのにお気楽な理想論やめろ」の対立とも通じるものがあると思います。どっちの言い分にも理があります。たぶん当事者は、どちらの立場にも触れながら、自分にとってちょうどいいバランスを見つけていくことになるんでしょう。「生き方を選ぶ段階」は既に過ぎてしまった身としては、「少なくとも僕はこうだったよ」と但し書きを入れるぐらいしかできないのかもしれません。

延々具体的ではない話の最後に締まらない結論ですが、今はこのぐらいで。