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四月から大学院に進む人へ

たまたま自分の指導学生が複数、今度の四月から院に進学することになりました。で、こういうエントリ書きます。とは言っても僕は、「大学院でつまずかない8つのルール」みたいなんは嫌なのです。色々考えた挙句、「予言」という形にしてみます。


予言1:修士は一瞬で終わる。

院にいた経験がある人ならほぼ全員が同意すると思います。修士は、本当に一瞬で、光の速さで終わります。あっという間に「え、もう修論?」あっという間に「え、もう終わり?」です。毎年この時期、修士を終えた学生は皆が口を揃えて「なんだかあっという間に終わってしまいました」と言います。僕の後輩は「僕、修士時代の記憶がないです。本当に自分に修士時代があったのかどうか。。。」と真顔で言ってましたが、決して大袈裟ではありません。予言します、あなたは二年後、呆然と「なんだかあっという間に終わってしまった。自分は一体この二年間で何をしていたのだろう?」と呟くことになります。

というわけで、修士の学生にとって、時間はものすごく稀少で貴重なリソースです。学部の時間と同じ換算レートで修士の時間を使っていると、もう本当にあっと言う間に無くなってしまいます。おそらく、あなたがこの言葉の本当の意味に気付くのは二年後ですが、しかし今からこういうことを聞いておいてもいいでしょう。


予言2: 修論は残念な結果に終わる。

さて、今後の二年間、あなたは時間を最大限に活用しながら、必死で真剣に学問に取り組む、とします。予定通りに事が進めば、二年後には修士論文を書き上げているはずです。では予言です。この修論ですが、出来上がったものはあなたにとって到底満足できない、無残な代物になります。書き上げた直後は何となくハイになってるかもしれませんが、一ヶ月も経って落ち着くと、もう自分の修論のあまりの悲惨な出来栄えに、決して人の目に触れないところに封印してしまいたくなります。

これは当然の帰結です。修士の二年間というのは、真面目に勉強すれば、良い研究とそうでないもの、良い論文とそうでないものを見分ける力を身につけるには十分な時間です。それに対して、自分で良い研究を行い良い論文を書くために必要な知識やスキルを身に付けるためには、もう圧倒的に時間が足りません。全然無理です。というわけで「よく勉強してきた修士二年」というのは、映画『アマデウス』のサリエリみたいな状態になってます。モーツァルトの音楽の良さを認める能力があるのに、自分でそれを創ることはできない、という。だから自分の修論を見ると、それが自分の知っている良い研究論文と比べてあまりにどうしようもない代物であることは痛いほどよくわかるのに、それ以上良くすることもできない、という結果になるのです。

しかし実は、この「挫折」こそが、修士課程というプログラムが学生に与えんとしているものなのです。この経験を通過することで、あなたは世界の大きさと自分の小ささを思い知ります。無意識の全能感から解き放たれて、「学問」の真の姿を自分の肌で感じることになります。新しいものを生み出すことがどれだけ困難なのかを思い知って、新しいものを生み出す仕事を始める準備ができるのです。修論は、「盛大に失敗する」ぐらいでちょうどいいかもしれないんです。


というわけで。あなたの修士課程が実り多からんことを願います。何かあったらいつでも相談に来て下さい。