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女子大教員。大学教育・言語・ねこ・写真とカメラなどについて。

教育にイノベーションは必要か

茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第540回「ダメなものを排除するより、良いものに光を当てた方が場外ホームランを飛ばすオーバーアチーブ出るよ」

まとめ内、モギケンのツイートから:

むしろ話は逆で、すばらしい活動、教育をしている先生を見つけ出し、その人に大阪市長賞をあげればいいのでしょう。みんなの前で大いに褒めたらいい。君の教育法は画期的だ。すばらしい。教育界のオスカーをあげよう。場外ホームランを飛ばす教師を見いだすことが、全体を引き上げる。


「場外ホームランを飛ばす教師」というのが気になるのである。場外ホームラン飛ばす教師、ってどんなのだろう。僕は普通の人よりも学生歴が長い(日本で五年、アメリカで五年大学院に通った)分、多分普通の人よりも少し多めに教師を見てきた。その中には、本当に大切なことを教わった、「恩師」と呼べる人が何人かいる。でも僕の恩師が場外ホームランを飛ばしてたかというと、どうしてもそれはイメージが違う。

僕にとって素晴らしい先生だった人達は、誰一人として、何も特別なことはしていなかった。普通の授業、普通のテキスト、普通の板書。これまでの授業の概念を覆す!とか、「教育を再発明します!」みたいな何かとか、そんなものは一切なかった。皆、これまで学校で誰もが使っていた手法と同じことをやっていた。

じゃあ一体、僕は彼らの何が良かったのだろう。どうして彼らは僕にとって恩師なのだろう。そんな感じのことを考えてみた。そうしたら、およそ具体例を挙げられるような「知識」として、彼らから学んだと断言できることって全然無いことに気付いたのだ。高校時代の英語の先生から、英語に関して何を学んだのか、全く思い出せない。大学以降で得た言語学の知識は、それが先生から教えられたものなのか、自分で本や論文を読んで知ったことなのか、どうもはっきりと区別がつかない。あの先生達は、僕に新たな知識を授けてくれたから恩師として記憶されている、ということではないらしい。

僕があの先生達から学んだと言えるもの、それは言葉で表現しようとすると、「哲学」とか「生き方」とか「人格」とか、そんな感じの他人とは共有しがたい何かになってしまう。例えば、「世界の隠れた秩序を見出すことに真摯な情熱を燃やす」とか、「自分が正しいと思うことを、勇気を持って堂々と他人に語る」とか、「損得勘定からは離れて、他人を助けることに時間を費やす」とか、「学ぶことに敬意を払い、自分が知らないことを謙虚に受け止める」とか。で、それらのことは、先生達が自らの振る舞いを通して体現していたことだった、と思う。あの先生達は、大人が・研究者が持つべき性質のいくつかを具現化させたような存在だった。僕は言葉で「ああしなさい、こうしなさい」と言われたことよりも、そういった先生達の存在そのものから何かを学んだのだと思う。


自分が教える立場になってみて、「ああしなさい、こうしなさい」という言葉のみの指導の無力さを痛感している。例えば「文献はしっかり読みなさい」ものすごく大事なことだけど、いくら口を酸っぱくして言っても、それだけでは学生は決して動かない。僕が学生の前で、「圧倒的にしっかり文献を読む人」であり続けなければならないのである。「文献をしっかりと読む」という、学問をやる上で欠かすことのできない概念を教えようとしたら、唯一効果的な方法は、学生に対してその概念を、自分自身で具現化してみせることなのだ。

僕は教師になって五年目の超ペーペーだけども、「わかりやすく授業をする」ことには結構な情熱を燃やしている。ところが実際、たとえ学生が「先生の授業、すっごくわかりやすかったです」と言っていたとしても、僕が教えた知識そのものは、驚くほどあっさりと学生の頭から抜け落ちるのである。「C統御って何?」「えーっと。。。」「去年の統語論でやったじゃん!君テストすごく良くできてたじゃん!」みたいなことは日常茶飯事だ。だけれども、学生の前で「ものごとを上手に整理して、工夫して分かりやすく説明してくれる人」であり続ければ、どうも彼らは「人に何かを説明する時、整理して工夫して分かりやすくしようと努力する」ことは身に付けてくれるようなのだ。


もしこれが「教育の本質」とでも呼べるものに、多少なりともカスっているのだとすれば。だとすれば、教育において「イノベーション」とか呼ばれる何かは実は枝葉末節に過ぎないのではないだろうか。人に何かを教えるものが、究極的には教師の人としてのありさまなのだとしたら、紙のテキストだろうが電子教科書だろうが、板書であろうがパワーポイントであろうが、それらは教師のありさまを表現する媒介でしかない。一人一人の教師が、自分のありさまを最も効果的に伝えられるメディアを選べばいいだけのことだ。

Khan Academyの本質は、ビデオだYouTubeだインターネットだ云々ではなくて、「Salman Khanがすっげえ楽しそう」ってことなのではないか?彼が数式を使って問題を解いて見せる時の語り口は、殆ど「おばあちゃんに大好きな電車について説明する男の子」みたいなイメージを喚起させる。あの楽しげなありさまが人々を魅了して、心の中で(例えば)「こんな風に楽しく数学ができるようになりたい」と思わせていることが、成功のほぼ唯一の原因なのではないだろうか。

おそらくインターネットは、Khanのような教師がより多くの人にそのありさまを伝えるのには多大な貢献をするだろう。でも僕の経験では、学ばれるべき性質を沢山持っているけど、それはネット上のメディアに載せて表現するのには向いていない、というような教師は沢山いるのである。彼らは古典的な授業と、面談と、その他の生徒との交流を通して真価を発揮し、そこから生徒は「知識」以外の何かを学んでいる。だったら、それはそれでいいではないか。それができている教師に、わざわざ「イノベーション」を要求する必要はどこにあるのだろうか。

僕はここまで書いてきたことが「正しい」のかはわからない。結局僕は自分の経験を通して良かったことしか「良い」と判断できないわけで、僕が経験してない「良い教育」ってのも沢山あるんだと思う。だけどもどちらかに賭けるとしたら、教育に「場外ホームラン」だとか、「イノベーション」だとか、そういった現状を画期的に変えてしまう一撃なんて存在しない、っていう方に賭ける。教育システムや道具がどのように変わろうと、一人の教師にできるのは生徒に対して「自分がどのような人間であるか」を表現し続けることしかないと思う。そうだとすれば、生徒が一人の教師から学ぶことは、システムや道具の変化では本質的には変わらないのだ。