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bluelines

女子大教員。大学教育・言語・ねこ・写真とカメラなどについて。

理想の英語教育のコスト

【注意】これは、「日本の英語教育は完璧であり、改良の余地なんかない」と主張するエントリではありません。


本題。こないだ、ツイッターにこんなこと書きました:

「俺達よりも英語ができる次代の若者を育てるために俺達がワリを食らう」という前提を受け入れて初めて、実質がある英語教育改革の議論ができるんじゃないですかね。

この話をもう少し膨らませたいと思います。


日本ではともかく多くの人が学校英語教育に不満を抱いている。でその不満というのは大方「話せるようにならない」ということに集約される。「話せるようにならない」というのはほぼその通りではある。英語が好きでちゃんと勉強して、センター試験英語で満点が取れるような学生(つまり、学校で教えている英語をちゃんと習得した学生)でも、それだけでは英会話の能力は決して高くならない。

で、いろんなところから―それこそ一般人から政治家・経団連のようなエスタブリッシュメントまで―出てくる英語教育改革論というのは、「話せるようにする」ということを目標に掲げる。僕は、それが一体どういうことなのか、もう少し考えてみませんか、と言いたいのである。

仮にあなたが英会話を身に付けたくて、英会話学校に通うことを考えているとする。あなたの地元で通える範囲には、次のような英会話学校があるとしよう。

英会話学校A: 講師は訓練を受けた英語ネイティブ。クラスは5人前後の少人数制。レッスン料は高い。
英会話学校B: 講師はほとんど日本人で、時々ネイティブのアシスタントが付く。クラスは30〜40人。レッスン料は格安。

さあ、どちらにしよう。おそらくここで学校Bを選ぶ人は殆どいないはずだ。「そんなの、行っても意味ないんじゃない?」と思うだろう。Aを選ぶか、Aのレッスン料が払えそうにないのであれば、候補Bは捨てて、Skypeで外人と話すとかそういうやり方を模索し始めるだろう。

つまり、我々はみな分かってはいるのだ、「30人以上の大クラスで英会話の練習もへったくれもないだろう」ということは。クラスの人数が増えればそれに反比例して、生徒一人の「持ち時間」は減る。持ち時間、つまり実際に英語で会話をする時間が減れば減るほど、高い会話能力を習得できる望みは薄れる。当然至極である。しかし、「現状日本の公教育はどうしたって英会話学校Bにしかならない」という点が、英語教育改革の議論に上がってくることはあまりに少ないように思える。

じゃあ英会話学校Aになるためには何が必要なのか?全国津々浦々の小中高校に、生徒5人につき1人の割合でネイティブ講師を雇わなければならない。ただ単に英語が話せるだけではなく、ちゃんと教師としての訓練を受けたネイティブをリクルートし、あるいはリクルートしたネイティブに必要な訓練を施し、全国の学校に配置するためのインフラを管理する公的機関も必要だ。少人数クラスを実現するためには、学校に少人数クラス用の教室が必要になるから、殆どの学校で大規模な改築工事を行わなければならない。莫大なカネがかかる。だから今まで公教育は「まともに英会話の訓練ができる環境」を提供することができず、それは多額のレッスン料を取る英会話教室の特権だったのだ。まともに英会話の訓練ができる環境を公教育で実現しようとするならば、絶対に莫大なカネがかかるのだ。

そのカネを払うのは誰だろうか?これは公教育の話なのだから、改革コストは殆どを税金で賄うことになるだろう。つまり、もう学校を卒業して、就労して、税金を払っている世代が何らかの形で負担することになる。そして素晴らしい英語教育が実現できたとして、その直接的恩恵を、カネを払った世代が受けることはない。それどころか、素晴らしい英語教育を受けて英語がペラペラになった若い世代は、いずれ社会に出て、カネを払った世代の仕事を奪って行くことになる。「あのおっさん、英語も話せないのか」と若者に揶揄される時が来るわけだ。


ということで、現状とりうる立場は以下の三つ:

  1. 次の世代に対する英語教育の充実に必要なコストを引き受ける。それが自分自身の直接的利益に繋がらなくても構わない。
  2. 公教育での英会話は諦める。英会話の訓練は街の英会話スクールや、特殊な私立校や留学で、必要なコストは生徒本人(あるいはその保護者)が支払って行えばいい。
  3. 英会話できるようにしろ。カネを出す気はない。お前らが何とかしろ。

僕は理想主義者ではあるけども、現在の日本で1の立場がマジョリティになると信じるほど楽観的ではない。現実的なのは2。3の無いものねだりが教育を歪め、若い世代がワリを食らう可能性を真剣に危惧している。