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書かされるだけなら卒論なんて書かない方がマシ

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110119-OYT1T00710.htm
卒業研究必修化を行えるマンパワーはあるのか? - 発声練習

僕が現場の人間として、間違いないことが分かっていること:

  1. 卒論をまともに書かせる、つまり、書いたことから何かが得られるようにするためには、ちゃんとした卒論指導が必要である。
  2. 卒論指導の質は、学生一人一人にかけた時間に正比例する。
  3. 担当学生数や、卒論以外での教員負担が増えれば増えるほど、一人一人の学生の卒論指導にかけられる時間は減少する。

分野にもよると思うんだけど、例えば担当学生二十人でまともな卒論指導するとかまあまず無理ですよ。努力や工夫の問題じゃなく、もう純粋に時間が足りない。

だから私大で卒論必修じゃないとかって、本来合理的なことなんですよ。まともに卒論を書かせるには手間がかかる。でも学生全員にその手間をかけるためには教員が足りない。じゃあ、「学生全員に質の低い指導の下卒論を書かせる」のがいいのか、「卒論を希望する学生だけに、質の高い指導を提供する」のがいいのか。前者は関わる人間皆が不幸になるだけなんだ。

「まともな卒論を書く」のと「卒論を書かない」では書く方がいい。
でも、「ただ必修だからというだけで適当な卒論を書く」と「書かない」には差がない。
にもかかわらず、書かせる手間は存在するわけで、その分教員のリソースが消費され、他の部分にしわ寄せがくるわけですよ。「卒論という純粋な通過儀礼」を維持するために、他の部分で教育の質が下がる。

ちなみにアメリカの大学では、学部の卒論は普通必修ではない。Honors thesisといって、特別に成績の良い学生だけが志願して「卒論を書く権利」を得て初めて書くことができる名誉なんである。そして、卒論を書いたことが、ちゃんと社会的に評価されるようになっている。

ブコメにも書いたんだけど、日本の組織で「改革」を主導したがる人って、怖ろしいほどヒューマンリソースの質・量に無関心なことが多い。「○○はいいことだからこれをやります」というだけで、現在のスタッフの陣容でそれができるのかをまともに考えない。この立命館の改革だって、これをやるんだったら専任の人数をふやさなきゃいけない、専任を増やすためには人件費が増える、それをどっから持ってくるのか、というところまで見通したプランが本来いるんですよね。たぶんだけど、この改革案を作って新聞に流している人にはそんなビジョンはない。