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bluelines

女子大教員。大学教育・言語・ねこ・写真とカメラなどについて。

英語教育とディスレクシア

英語 大学

ディスレクシア(ディスレキシア)という「障害」がある。日本語Wikiの記述は以下の通り。

学習障害の一種で知的能力及び一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書き学習に著しい困難を抱える障害である。


もちろん、これが人類の歴史において「障害」と認識されるようになったのは、ごく最近のことである。そもそも文字の歴史は五千年ほどであり、社会構造と公教育の変化により、誰もが識字能力を求められるようになったのは二十世紀以降のことだ。そのような変化が起こって初めて、「識字能力の獲得のみに困難がある」という性質が、その個人の社会生活における大きなリスク要因となったのだ。その意味で、ディスレクシア現代社会が作り出した「障害」と言える。

僕はディスレクシア及び言語関係の発達障害を専門分野としているわけではないが、最近あくまで一般的な興味として、いくつか関連する文献を読む、ということをしている。そのなかで一つ気になるものがあった。

A case study of an English-Japanese bilingual with monolingual dyslexia

この論文は、「日英語バイリンガルの少年が、英語に関してのみディスレクシアの症状を示す」というケースを扱ったものだ。16歳の少年A.S.は、オーストラリア人ジャーナリストの父親と、イギリス人英語教師の母親の間に生まれ、日本で育った。A.S.は家庭では英語を用い、学校では日本語を使用する、という環境で育ち、日本の高校(レベルの高い進学校)に進む。しかし彼は、日本語の識字能力に何らの問題を持たないのにも関わらず、英語の識字能力の獲得に困難を抱えていた。

調査によると、A.S.は16歳の時点で、日本人の大学学部生と同レベルの「漢字の読み能力」を備えていた。カナの読みに関しても、何らの異常は認められなかった。しかし彼の英語の識字能力及び英語の音韻認識能力は、同年代の英語ネイティブスピーカーを大きく下回っただけではなく、同年代の日本人よりも低かったのである。A.S.の症状は典型的な「音韻性ディスレクシア」であり、英語圏では「ありふれた」症例である。アメリカ合衆国では子供の5%-17%が何らかの意味でディスレクシアである、というデータもあり、これは左利きの人口比とほとんど違いがない。しかし、A.S.がおそらく遺伝的に持っていたディスレクシアのリスクは、英語の識字能力の獲得に関して顕在化したが、日本語に関しては全く顕在化しなかった。

何故このような「バイリンガルだが、モノリンガルのディスレクシア」という状況が発生するのか、その理由はまだはっきりしない。その点は置いておいて、この事例から日本の英語教育(もしくは、教育一般)に関して考えてみたい。

A.S.が自己の「障害」を認識するに至ったのは、彼の英語会話能力と識字能力の間に大きなギャップがあったことがきっかけであろうと推測できる。「両親が英語ネイティブで、こんなに喋れるのに、こんなに読めないのはおかしい」ということ。しかしもし、A.S.が日本語モノリンガルの子どもとして育っていたらどうなっただろうか?ほぼ間違いなく、ただ単に「英語ができない子」ということで片づけられていたのではないだろうか?IQも高く、進学校に通い、漢字は大学生並みに知っている。わかりやすい「障害」の兆候は何もない。そして日本の英語教育は読み書き中心であるから、彼が学校英語で優秀な成績を収められる可能性は低く、「話せるけど読めない」というシグナルもおそらく手に入らない。ディスレクシアという「障害」自体の社会的認知が乏しい日本で、彼が英語ができない理由は「努力不足」で片づけられてしまう、という結末が容易に想像できる。

ここから導ける論理的可能性:今現在、この日本中に、A.S.と同タイプのディスレクシアを抱えていながら、単に「英語ができない子」と見做されている子どもが沢山いるのかもしれない、ということ。仮にディスレクシアのリスク自体がアメリカでのそれと同レベルだとすれば、クラスに数人はそういう子どもがいることになる。

音韻性ディスレクシアの指標の一つは、「音韻認識能力における異常」である。例えば、耳で聞いた無意味語を復唱することができない。ある単語のペアが「韻を踏んでいるかどうか」の判断が難しい。単語を構成する音声を一部削除したらどうなるか、というのがわからない。これらの課題をこなす際に必要なのは、ある単語を構成している音声を一つ一つ分離して独立に認識できる能力だ。

で、僕は大学で言語学を教えていて、授業で音声学や音韻論を取り上げることがある。その際に、この「音声を一つ一つ独立に認識できる能力」に極めて大きな個人差があることを実感している。たとえば日本語の「た」という音は、[t]という子音と[a]という母音からなる、ということを理解させようとする。できる学生は本当に一瞬で理解するのだが、できない学生はものすごく苦労する、という印象がある。そして、一つのクラスには必ず数人「できない学生」がいる。つまり、音韻性ディスレクシアの特徴とされるものを持っているように見える学生は、僕の経験上、決して珍しくないのだ。

さあ、どうしよう。もし「人口の一割程度は、一般的なやり方で英語教育を施しても、(神経学的理由により)決して他の子どもと同じように英語を習得することができない」ということになったら。

短絡的には「ならば英語教育を会話中心にすればいいではないか」となるかもしれないが、個人的にこれがいい策とは思えない(この点についてはいずれまた別の機会に書きたい)。本来必要なのは、「英語能力」に対するオルタナティブの提供、ということではないかと思う。今の日本では英語が出来るかどうかが入試・進学に大きな影響を与え、職業選択に大きな影響を与える。英語というスキルが個人の人生において大きな価値を持っているのだ。そして問題は、「通常英語を習得する場合と同レベルのコストで習得できて、同レベルの価値が生み出せるスキル」という選択肢が存在していないことだと思う。一体何が英語に対するオルタナティブになり得るのかは分からないが、「そういうものが必要である」ということを認識しはじめてもいいのではないだろうか。