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写真をメインに、いろいろログ。

Studygiftと善意の捌け口

studygift 〜学費支援プラットフォーム〜
studygiftはなぜ暴走したか 「説明不足」では済まされない疑念、その中身
Webに爆誕した「studygift」という善意の塊の壮絶なオチ


まず、今回の特定のケースはあまりに酷すぎます。「詐欺になるかもしれない」というレベルで不誠実だったことは完全に論外です。志や目的によって正当化できるものではありません。これが多様性だの何だので許されるのであれば、「適当に見た目の良い若い子を拾ってきて、学生に仕立て上げ、学費支援詐欺の片棒を担がせる」ことが許されることになってしまいます。実際、今回のケースの構造はそれに近かったわけですから。

ただ、この総括だけではまだ足りないと思える部分があるので、ちょっと書き留めておきます。「学生が顔と名前をWebに晒して学費援助を募るシステム」がそもそも是か非か、ということについて。

この件を通して、首謀者の一人である家入一真氏の発言であるとか、別の企画であるとかを色々知ったのだけども、僕の感想は率直に言って「怖い」です。彼の活動は、浦沢直樹風に表現すると、「僕を見て!僕を見て!僕の中の善意がこんなに大きくなったよ!」というアピールのように思えます。しかも彼個人が暴走する善意に振り回されているだけではなく、Webを通じて多くの人間に「善意の捌け口」を与えようとしているように見えます。

映画『マグノリア』に、ドニーというキャラクターが出てきます。ドニーはかつては天才クイズ少年だったものの、今では落ちぶれて冴えない中年です。同性愛者であるドニーは、とあるバーテンに恋をするのだけれども、実際にアプローチをすることが出来ずに悶々としています。バーテンの気を引くため、彼と同じ歯の矯正をしようと金策に駆けまわって周りの人間にバカにされています。そんなドニーが、酔っ払ってこんなことを叫びます:

「この胸には、愛が溢れているのに、愛の捌け口が見つからないんだ」

ドニーは苦しんでいるわけです。しかしなぜこれが苦悩になるかといえば、「人に愛を与える」ことは大変難しいことだからです。人間は普通、与えた分、見返りが欲しくなります。受け手がそれを返してくれないと一層苦しくなります。仮に口で見返りなんていらない、と言ったとしても、与えられた側にとっては重荷に、そして迷惑になり得ます。愛を与えようとして拒絶されることは、人間の心にとって最も苦しいことの一つです。だからドニーは一歩が踏み出せない。彼の中の愛を持て余して苦悩を続けているのです。

家入氏が、「顔の見える援助」に拘るのは、支援者の側が支援することに満足感を得られるシステムにしたいからではないか、と思います。あの枠組みにおいては、まず支援者は学生を見て、その個人を支援するかどうかを決める。そしてその学生がその後どういう生活を送るかを「監視する」権利を得る。誰にどれだけ金が回るのか判らない匿名の寄付よりも、ずっと生々しく「支援した!」という感覚が得られます。そうやって支援者が、自己の善意に生々しい満足感を与えることができるシステムを彼は求めているのではないか。

だけれども、「支援者は善意の捌け口を得て、学生は金を得るのだからwin-win」というのは短絡的に過ぎます。愛と同じく、「人に善意を与える」ことは本来大変難しいんですよ。善意は相手を選び、適切なやり方で実行されなければ、最終的に相手を本当に助けることになりません。不用意に善意をばらまいても、与えられた側にとっては重荷に、そして迷惑になり得ます。だからこそ、「人を助ける仕事」の多く(医者とか、弁護士とか)は、長い間訓練を積んで、プロフェッショナルとして対価を得てその技術を提供する職業になっているわけです。

「学生に学費支援を行う」というのは、本来大変な熟慮が必要な問題です。どれぐらいの金額を、どういう条件で支援したら、その学生が本当に助けられるのか、あるいはどれだけの学生が助けられるのか。それを真面目に考えて設計された学費支援システムは、おそらく分かりやすい「善意の捌け口」にはなりません。例えば、学生が支援者に、一方的に支援の見返りを要求されて不幸になることを防ごうとするなら、システムは匿名にならざるを得ないんです。

Lo-Fi Project ANNEX: Studygiftのこと
なんかねぇ、教育も、臓器も、「人生」なんですよ、きっと。「”俺”が、”こいつ”に、人生を与えてやったんだ!」と、一人でも、かけらでも、思わせてしまうと、往々にしてよくない結果を招くことになる気がします。


本当にそうだと思う。そして、studygiftの運営が、支援対象の学生に「よくない結果」が起こるリスクを無視して「顔の見える援助」に拘るのであれば、それはもう学生のためのサービスではない。おっさんが苦学生を生贄に捧げて、「善意の捌け口」を得ているだけです。